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ヴェルサイユの祝祭 V:制作にあたって

私たちが今日、バロックダンスの振付を知る上で大きな手がかりとなる舞踏譜は、約350種類現存している。舞踏記譜法のシステムは、ルイ14世のダンス教師ボーシャンによって開発され、フイエの理論書「コレグラフィ」(1700)の出版によって集大成された。振付は舞踏会用のダンスと、オペラやバレエの中で踊られる劇場用ダンスとに大別される。本公演の第1部は、舞踏会のダンスをテーマにする。

バロックダンスが、貴族のイデオロギーを反映して宮廷社会の中で創り上げられたものであることは、当時の舞踏会の様子からも伺える。序列に従って極めて儀式的に踊られ、メヌエットの踊り方を記したP.ラモーの「ダンス教師」(1725)には、お辞儀の仕方からエスコートの方法に至まで詳細に示されている。しかし舞踏会の様相は、少しずつ変化を見せる。1684年、イギリスのダンス教師・アイザークによって、フランスにコントルダンス(イギリスにおいてはイングリッシュ・カントリーダンスと称される)がもたらされ、単純なステップを用いて何組ものペアが同時にフィギュアを楽しめるダンスが大流行したのである。それまで地位や身分の異なる人同士が、共に踊るなどということのあり得なかった「社交」ダンスのあり方における大きな変化であり、それはやがて訪れる貴族社会の崩壊を予期する現象の一つといっても過言ではないだろう。
コントルダンスの出現を経て、社交ダンスの変遷におけるもう一つの大きな変化とは、ワルツの誕生ではないだろうか。舞踏会のためのダンスの、一般民衆への開放である。その舞台は、フランス宮廷からドイツ、オーストリアへと移る。そして、この変貌の過程を開花させることに重要な役割を果たした人物こそ、モーツァルトと言えよう。モーツァルトは子どもの頃からダンスに親しみ、5歳で初舞台を踏んだと伝えられる。当時の有名な舞踊家・G.ヴェストリスに師事して本格的にダンスを学び、それらの実践と経験が舞曲の作曲において結実したことは、コントルダンスやレントラーをはじめとする作品が物語っている。
モーツァルトの作品に「ワルツ」という名称のものはなく、3拍子の舞曲には「ドイツ舞曲」「レントラー」といったタイトルが付けられている。しかし18世紀末に「ワルツ」という名称が定着するまでは 「walzen」と称されるダンスも「レントラー」も、「ドイツ舞曲」に総称されるものとして扱われていた。H.カトフスの著書(1800)は「レントラーがゆっくり踊られる点を除けば、ワルツ、レントラーのステップに相違点はない」と述べている(ニューグローヴ音楽事典より)。
私は、モーツァルトのレントラーにワルツの源泉を求め、昨年6月私の最初の歴史的舞踏の師であるE.カンピアヌ先生のもと、ウィーンを訪ねた。80歳になられた先生のステップは、今も軽やかで美しく、それは幸せなひとときだった。今回プログラムに取り上げたレントラーは、その折に指導を受けた「カドリーユ・スティリエンヌ」振付、E.アイヒラー(1847)に基づいて、小川絢子さんとともに資料研究した作品である。フランス貴族スタイルを代表するメヌエット、モーツァルトのレントラー‥‥時代に隔たりがあるとはいえ、同じ3拍子の舞曲である。しかしそれぞれのステップがもたらす空気や心情の揺れそして香りは、私を全く異なる輝きを持つ世界へと導いてくれる。
第2部は、ヴェルサイユのエンターテインメントとして劇場用のダンスを取り上げる。中でも、今回プログラム最後にご覧いただく「9人のダンサーによるバレエ」は、私がいつか復元をと夢見てきた作品である。それはソロダンサーを中心に、8人のダンサーがフィギュアを作っていく大作で、舞踏譜(資料)は極めて複雑である。ベアード、ボーゲスと私3人で、まず昨年夏にアメリカ・ラットガース大学におけるワークショップで、受講生とともに復元を試みた。そして日本では、いよいよ11月半ばからリハーサルを開始した。私の尊敬するバレエのエキスパートたちにとっても、極めて高度なテクニックを要することと、バロックダンスという時代的な様式があることから、練習は真剣そのものであった。
リハーサルの進行は、まさに舞踏譜に命が吹き込まれていく過程を目のあたりにするような、至福の時を私に与えてくれた。そしてこの作品が、今から300年も昔にどのように上演されたのだろうかとダンサーたちみんなで熱く語り合ったことは、生涯忘れないと思う。

「ヴェルサイユの祝祭V」プログラム冊子 より